社会学史 (講談社現代新書)本ダウンロード
社会学史 (講談社現代新書)
本, 大澤真幸
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社会学史 (講談社現代新書)本ダウンロード - 本物の教養がこんなに頭に染み込んで、ものの見方がすっかり変わる経験をあなたに!マルクスもフロイトもフーコーも、実は社会学者なんです。「社会学はもちろん、その周辺の学問を理解するためには、どうしても、社会学史全体を知っておく必要があります。それなのに、なぜか、社会学史の本がほとんどないのが現状です。だから、この仕事に私は、強い社会的な使命感を持っています」――大澤真幸
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本書は編集者向けの講義録が元になっているとあとがきにあるが、なんという贅沢な授業だろうか。昨今の大学改革の議論のなかでは社会学を含めた人文・社会科学系の学部は分が悪いが、教育制度そのものも含めた現代社会の仕組みとその由来についての理解は近代社会における市民、つまり納税者や有権者に必要な基礎教育でもある。その意味で社会学史は必修科目にしてもいいくらいだ。とりわけ、世界じゅうで対立や分断が日常化するなかで、「社会秩序はいかにして可能か」という問いの重みは増している。社会契約説の三大スターから社会学史のビッグスリーをへて社会学理論のツインピークスへ至る壮大な知的旅行。しばしば挟み込まれるガイド氏の独自理論は深入りしすぎないよう注意しながら楽しもう。綿密に整理された厖大な知識が大河ドラマのような面白さで語られており、驚くほどの勢いで読み進められるが、いったん読み終わってから、通年講義の教科書のように読み返したいと思った。個人的にはジンメルとゴフマンの考え方がツボにはまったが、それはつまりルソー的なるものに対する違和感、フランス革命に対する留保、のようなものに繋がるのだろう。自分の物事に対する「好き嫌い」「性に合う合わない」という感覚をこうした歴史的文脈のなかに位置付けてみるのは面白い。著者が「おわりに」で人文・社会系の知は、「その歴史を知らなければ、習得できない」と書いているが、思想史は自己および社会を相対化して理解するための、つまり社会科学全体の土台となる。以下は備忘録的にまとめたもの。〈パート1〉本書は紀元前4世紀の“スーパー学者”アリストテレスから始まるが、そこから19世紀までの話は社会学誕生までの長い助走である。アリストテレスの時代から一気に17~18世紀に話は飛ぶが、それはこの時代に至るまで「真理は神によって啓示されるもの」だったため、「なぜほかならぬこの社会が実現できているのか」という人間社会の偶有性を前提にした問いを立てること自体がありえなかったためだ。「社会秩序はいかにして可能か」という社会学の主題は、科学革命と啓蒙主義の時代になって、真理が神学から開放されたからこそ生まれてきたものである。その萌芽ともいえるのが「社会契約」という考え方だ。本書では“社会契約説の三大スター”、ホッブズ、ロック、ルソーらも詳しく紹介されるが、彼らの思想はまだ社会学には至っていない。なぜなら三者三様に「規範的目標の設定」が前提となった議論であり、「経験的に説明する」という社会学のスタイルにはなっていないというわけだ。とはいっても社会契約説は社会学への重要な導線・伏線となっている。神学が独占していた「真理」が開放され、人間社会に関する真理を追究する社会科学という学問領域が発達していく過程で大きな触媒の役割を果たしたのがフランス革命だった。政体交替という社会の根底からの大変化をどう説明するか、人民主権の下でいかにして意思決定を行うのか、といった必要性から社会科学が生まれた。まずは歴史学、それから少し遅れて三つの代表的な社会科学であるところの経済学、政治学、社会学が生まれた。それぞれ市場、国家、市民社会という近代の三つの機能領域に対応している。「社会学」という言葉を最初に使ったのはフランス革命がほぼ終息した頃に生れたオーギュスト・コントである。コントより20年ほど遅れて生まれたハーバート・スペンサーは英語で”社会学」という言葉を初めて使った人である。この人は日本の明治維新にも多大な影響を与えた。コントは人間の精神は「神学的→形而上学的→実証的」と段階をふんで進化してきた(「三状態の法則」)という説、スペンサーは文明は「軍事型社会→産業型社会」と発展するという説をとなえた。このような時間感覚、歴史認識がコントとスペンサーをホッブズやルソーなどの社会契約説には見られなかった特徴である。19世紀は「時間や歴史が思想の根幹になった時代」であった。19世紀の社会学者で突出して重要なのがマルクス。「社会秩序はいかにして可能か」という問いへの彼の答えが、「価値形態論」のなかにある。商品交換が成り立つ関係性の分析から貨幣が生まれ、そこから市場(という社会)における秩序が生まれるメカニズムを説明しているからだ。その貨幣(となる商品)は他の商品とは次元の異なる特別な価値を発揮しており、客観的にみれば人はそれを「神」のように扱っている。実際にお金を神と思っていなくても「行動が無意識のうちに信仰をもっている」ことをマルクスは見て取った。著者は『資本論』の最も重要な洞察は「資本主義は一種の[無意識の]宗教だ」ということだと指摘する。〈パート2〉この「無意識」と関連して出てくるのが、通常、社会学者には入らないフロイトだ。外から観察はできるけれども、本人はそれを自覚していないこと、それがフロイトがいう「無意識」である。自分のなかに自分の知らない部分があるということではなく、自分の思考が自分の外で発生しているように感じられるという現象だ。このような「無意識」は内なる自分と他者、自分と社会をむすびつけるものになりうる。そんな理由でフロイトは社会学においても重要人物であるというのが大澤説。本書は社会学の源流から本流に入り、途中、支流や分流に分け入り、ときに池や湖に遊びながらゆるやかに時代を下って行く。そこがとても楽しい。フロイトとおなじ19世紀末に登場した社会学史の“ビッグスリー”がエミール・デュルケーム、ゲオルク・ジンメル、そしてマックス・ヴェーバーだ。この3人によって社会学的方法および定義が確立し、社会学がひとつのディシプリンとして成立した。本書では当然のように3人のうちヴェーバーにもっとも紙幅が割かれているが、個人的にはジンメルの考え方がいちばん「性に合う」気がした。著者はジンメルを特徴づけるのは「都市に生きる者としての感受性や知性」だと書いている。主著『社会文化論』でジンメルは、社会圏が拡大して社会分化が進むと、個人は集団から自立し、解放されるという点に着目した。デュルケームは逆に社会で分業がすすむと相互依存度が高まり、連帯が高まると考えた。ジンメル社会学の中心にある「結合と分離」は対立概念ではなく深く結びついた現象であることを示そうとした。それを「橋と扉」という比喩をもちいて説明している。橋をかけるのは分離しているものを結合するため、扉を設けるのは結合しているものを分離するため。同様に、人間関係における「秘密」や「闘争」も同じような二重性をもっている。秘密や闘争が存在しない場合に必ずしも結束が強まるわけではないことをわれわれは経験則で知っている。ジンメルは人間社会における「相互行為」は「内容」と「形式」をもっており、後者こそが社会を社会たらしめていると考えた。なぜなら相互行為には「結合と分離」の両面があり、「内容(好き嫌い、利害など)」が分離要因になった場合でも「形式(礼儀、社交)」によって結合が可能になるからだ。逆に「内容」によって結合しながらも一定の距離を保つためには「形式」が役に立つ。同じ価値観、同じ信仰などをもたない者同士がその差異を保存しつつ集団や社会として結合するためには「形式」が必要になるのである。著者はここからジンメルが社会の最小単位とする「三人結合」は、「二人結合」に「形式をもった相互作用」が合わさった場合にも成立すると指摘する。コミュニケーションにおける「形式」は「三番目の人の介入」と同じ効果があるということだ。茶の湯の一客一亭などでは、まさに「二人結合+形式」というジンメルの方程式による最小単位の社会の完成形のようなものではないだろうか。ジンメルの都会的感性は、都市化、グローバル化、資本主義化がいきわたり、インターネットで常時接続されている現代社会における相互作用というものについても説明力が非常に高いと思った。19世紀にあらわれた“社会学連峰(ビッグスリー)”のなかでも“特別な高峰”がマックス・ヴェーバーである。社会学になじみのない人でも知っているビッグネームだ。ヴェーバーは社会学を以下のように定義した。「社会的行為を開明的に理解し、そのことによって経過と結果を因果的に説明しようとする科学」。そのメソッドのなかでは「価値自由」「理念型」とういふたつの概念を重視した。前者は「事実判断を価値判断から区別せよ」ということで、後者は「特定の観点から観て意義あることがらだけを抽出」せよというということになるが、著者が指摘しているように「意義あることを抽出する」という部分に「価値判断」が入ってしまう。この矛盾はヴェーバーによって意識されていないが、社会学の徒はそのことについて問い続けよと著者は言う。ヴェーバーの社会学の究極的な主題は「合理化」という現象。有名な「支配の三類型」においては、「伝統的支配」→「カリスマ的支配」→「合法的支配」へと移行するにしたがって合理性が高まってきている。宗教の合理化がテーマの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』でヴェーバーはカルヴァン派の予定説から資本主義の精神を導き出しているが、この道筋が複雑でわかりにくいということで、著者は「ニューカムのパラドックス」という補助線を引いてプロテスタントは「全知全能の神」は絶対に間違わないという前提で、神の予見(と自分が信じているもの)に自らの行動を合わせていく、ゆえに禁欲や勤勉が救済につながるという「想定・決断(つまり思い込み)」は、彼らにとっては合理的なものとなる、と説明している。そこから(目的)合理性の根っこにある非合理的な思い込みも含めて全体的には価値合理性が実現されているよ、という話につながる(ああ複雑!)。〈パート3〉そしていよいよ20世紀。社会学の中心はアメリカに移る。ユダヤ系の亡命学者たちが流入したこと、政治経済の覇権とともに文化の覇権もアメリカに移動したことがその背景になる。アメリカ独自の社会学の成果として最初に出てくるのがトウィリアム・アイザック・トマスの『ヨーロッパとアメリカにおけるポーランド農民』。ライフヒストリー研究のはしりとなり、ここから「トマスの定理(人減がある状況を現実として定義すると、その状況は結果として現実となる)」という言葉も生まれた。トマスをはじめ、アメリカで初期に活躍したのはシカゴ学派とよばれる人々。「人間生態学」で知られ「マージナルマン」の概念を提起したロバート・エズラ・パークと「同心円モデル」のアーネスト・バージェスが代表的。そして、真打、タルコット・パーソンズの登場。1940~60年代に世界でもっとも影響力があった社会学者である。彼の打ち立てた「構造-機能主義」は社会学理論の基本的なスタイルとなっている。パーソンズの社会学上の貢献は、社会システムを分析するための理論的枠組みをつくったことで、有名なのが社会の四つの機能的用件を提示した「AGIL図式」。すなわちAdoptation,Goal Attainmaent,Integration,Latent pattern maintainance and tension managementの四つ。ただ、パーソンズの「構造‐機能分析」は社会変動を説明できないというこできないということで、批判もある。パーソンズの弟子で「中範囲の理論」を唱えたマートンはそれよりはるかに重要な(と著者が考える)功績として「潜在的機能・顕在的機能」という区別を機能主義理論にもちこんだ。すなわち「人々がGを目指すとき(顕在的機能)、その限りでX(潜在的機能)がもたられる」という現象である。たとえば、有名な投資家がある銘柄を「上がる」と予想した(G)結果、人々がそれを信じてその銘柄を買った結果、実際に上がった(X)という場合などがこの概念できれいに説明できる。ちなみにこれは「予言の自己成就」と呼ばれる、潜在的機能に関する特殊ケースにあたる。パーソンズの「構造-機能主義」は1970年代まで、社会学の世界で一世を風靡したが、少し遅れてきた「意味の社会学」が20世紀終盤にかけて優勢になっていく。そのスター的存在がアルフレッド・シュッツ。市井の学者だったシュッツはフッサールの現象学を社会学に導入し、「現象学的社会学」を標榜する。「直接世界/共時世界/前世界/後世界」という同心円状の世界、レリヴァンスに応じていくつもの意味領域が形成されるという「多元的現実」といった重要な概念を生み出す。その後継者としてピーター・バーガー、トーマス・ルックマンらがいる。彼らのとなえた「知識社会学」は、「社会的現実とは人間の知識〈政治思想、イデオロギー〉に媒介された構築物だ」と考える。彼らの共著『日常世界の構成』は社会学のよい入門書であると著者は指摘する。これ以外の「意味学派」のなかに「役割距離」という概念を生み出したアーヴィング・ゴフマンがいる。個人的にはジンメルと並んでこの人の考え方に興味をもった。「役割距離」とは自己が役割にトータルに同一化していない状況を指す。これがあるおかげで本来の役割が順調に機能するという結論が面白い。「儀礼的無関心」つまり「気がついているけど気がつかないフリをする」ことでコミュニケーションが円滑に進捗する、といった指摘も納得度が高い。これは「社交」の有用性を説いたジンメルともよく似た考え方だ。ジンメルがそうであるようにゴフマンもルソーとは相容れない。著者は、ルソーが「透明のユートピア」ならゴフマンは「不透明の効用」と、うまいこと言っている。ルソーの理想とするに裏表のない世界、すべてが本音の世界、全人格的な関係が可能な世界というのは完全監視社会だろう。『アサイラム』はゴフマンは人々から「役割」を完全に剥奪した社会がどうなるかを描いたものである。最後の100頁ほどは機能主義の社会学と〈意味〉の社会学を、どのように統合したらよいのかをめぐる話。レヴィ・ストロースの構造主義、ジャック・デリダとピエール・ブルデューによるその批判のあといよいよニクラス・ルーマンとミシェル・フーコーが登場。ルーマンは大御所ユルゲン・ハーバー・マスを批判して有名人に。「人間」からできているのが社会」と考えたハーバーマスに対し、ルーマンは「コミュニケーションがコミュニケートし合うのが社会」と考えた。ルーマンより一歳上のフーコーは、1966年に『言葉と物』というベストセラーを出し、これが「バゲットのように売れた」という。その中心概念は「エピステーメー」。ある時代や社会の思考システムの基本的布置、のこと。その座標軸が「類似→表象→人間」と不連続に進化してきたとフーコーは考える。さらに進化すれば「人間」も座標軸ではなくなっていく。そのことをフーコーは「波打ち際の砂の顔のように消え去ろうとしている」と詩的に表現し、サルトルの実存主義を批判した。この人間主義消滅の予言がルーマンの社会システム論に呼応しているというのが著者の見立てだ。フーコーは権力の分析論を経て、主体と権力の循環の外に出るための概念として「自己への配慮」に行き着く。「自分にとって付属物であるようなもの〈富や地位〉を、自分自身に優先させてはならない」ということ、すなわち「自己が自己自身を統治できるようにする」ことを重視した。今風の言葉でいえばセルフマネジメント、ということになろうか。ルーマンとフーコーという社会学理論の“ツインピークス”が社会学の理論的到達点である、というのが本書の結論だ。ここからさらなる展開がありうるならば「自然科学もその中に含む知の大きな変化と結びついて起きるはず」と言う著者が注目しているのがカンタン・メイヤスーに代表される思弁的実在論である。「思弁的実在論と社会学が合体したとき、はじめて相関主義は乗り越えられます」。相関主義とは「思考と世界は相互的な相関の関係にある」、つまり思考と存在はセットであって、別々に論じることはできないという考え方である。これを厳密につきつめると、人類誕生以前について思考することはできなくなるが、自然科学における素朴実在論はそれをやすやすと乗り越えてしまっている。社会科学においても「この世界がまったく別のものになりうる」という偶有性の概念をもって、相関主義を超えていくことができるというのが思弁的実在論の立場である(という理解でいいのかな?)。この偶有性こそ社会学のキー概念であった。この社会でなく別の社会への可能性がある、と信じることができてはじめて、社会の変革を目指すことができる、というのが本書の結論である。ここまでが三学期の授業。最後の方、とくに思弁的実在論のあたりから、ちょっと字面を追うだけの読み方になってしまったが、とにもかくにも読了。
de 大澤真幸
4.8 5つ星のうち (26 人の読者)
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